アーティスト
2008年06月30日
浜崎あゆみ10周年
浜崎あゆみが10周年を迎えましたね。
同い年なので共感できる部分がたくさんあります。
歌詞がすごく良いですね。
これからも頑張ってください!

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A museum ~30th single collection live~
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2008年06月29日
YUIの楽曲
YUIは可愛いし、楽曲も良いですね♪
kissmintのCMの曲が好きです。
これからも頑張ってほしいです→YUI全曲集

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2008年06月25日
絢香がとくダネに出演
絢香がとくダネに出演してました。
大ヒット曲おかえりを熱唱!
小倉さんはいつもどおりの大興奮でした

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2008年06月23日
エイベックス株主総会
エイベックスの株主総会はライブがあるんですね。
株主総会よりライブ目当てで行くんでしょうね。

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2008年06月22日
倖田來未
倖田來未は今や日本を代表する歌姫になりました。
最初は目立たない感じでしたが頑張ればこうなるんですね!
これからも頑張ってください→倖田來未 Maroc愛蔵版

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KODA KUMI LIVE TOUR 2007~Black Cherry~SPECIAL FINAL in TOKYO DOME
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2008年06月05日
DEENがテレビに・・・
DEENがテレビに出演したと聞きました。
懐かしいです。
「このまま君だけを奪い去りたい」は永遠の名曲ですね♪

限〉DEEN LIVE JOY COMPLETE 2006−2007<PremiDEEN

Smile Blue〜DEEN Classics Four Blue〜
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2008年05月30日
ダイアモンドユカイ
ダイアモンドユカイさんがアメトークに出演しました!
カッコいいですな♪
死ぬまでロックしてほしいです→D☆Y Short Bible

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Rolling Rocks Diamond☆Yukai guest SHAKE
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2008年05月24日
AAA
AAAは、エイベックス所属のグループ名。
Attack All Around(アタック・オール・アラウンド)
の略です

AAA 2nd Anniversary Live-5th ATTACK 070922-日本武道館(スペシャル盤)

ATTACK ALL AROUND(1万枚限定生産)(豪華60頁フォトブックレット付)(2DVD付)
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2008年05月20日
サザンオールスターズ無期限活動休止
サザンオールスターズをwikipediaで調べました

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サザンオールスターズ(Southern All Stars, 台湾訳:南方之星,中国訳:南天群星)は、日本の音楽バンド。略称は「サザン」。「SAS」と略記されることもある。リーダーは桑田佳祐[1]。所属事務所はアミューズ、レコード会社はビクターエンタテインメント(ビクターTAISHITAレーベル)。これまでのアルバム、シングルの情報についてはサザンオールスターズのディスコグラフィを参照。
目次
[非表示]
* 1 メンバー
* 2 歴史
o 2.1 結成〜デビュー
o 2.2 音楽製作に専念〜『KAMAKURA』後サザン活動休止へ
o 2.3 活動再開〜小林とのコラボ、黄金期へ
o 2.4 セルフアレンジ時代へ
o 2.5 『TSUNAMI』記録的ヒット、大森の独立
o 2.6 25周年での活動再開、再びの活動休止へ
o 2.7 現在
* 3 来歴
o 3.1 1970年代
o 3.2 1980年代
o 3.3 1990年代
o 3.4 2000年代
* 4 稲村オーケストラの存在
* 5 作品
* 6 ライブ・コンサートツアー
* 7 出演
o 7.1 CM
* 8 メディアで使われた曲
* 9 書籍
o 9.1 写真集
o 9.2 関連書籍
* 10 関連項目
* 11 出典・参考文献
* 12 外部リンク
[編集] メンバー
* 桑田佳祐/リードボーカル、ギター(リーダー)
* 関口和之/ベース、コーラス、ボーカル
* 松田弘/ドラム、コーラス、ボーカル
* 原由子/キーボード、ボーカル、コーラス
* 野沢秀行/パーカッション、コーラス
* 大森隆志/リードギター、ボーカル(2001年8月7日付けで独立)
o 各メンバーがコーラスを担当、更に野沢以外はメインボーカル曲があり、作詞・作曲もこなす。
o シングル曲など殆どを桑田が作詞曲を担当。
o 連名は基本的に桑田、大森、関口、松田、原、野沢の順で統一されている。
o 大森脱退後は桑田、関口、松田、原、野沢の順になっている。
[編集] 歴史
各メンバーのソロ活動については個々のページ参照。
[編集] 結成〜デビュー
1975年頃、青山学院大学で活動が始まり[1]、音楽サークル“Better Days”(ベター・デイズ)のメンバーだった桑田を中心に母体となるバンドが結成される[1]。初期の頃は“温泉あんまももひきバンド”、“ピストン桑田とシリンダーズ”、“ピストン桑田と脳卒中”、“桑田佳祐とヒッチコック劇場”など、奇抜なバンド名でコンテスト毎に何度もバンド名とメンバーを変更していたが[1]、最終的には原由子参入の際、桑田の友人が風呂の中で安易に思いついたという「サザン・ロックとファニア・オールスターズを組み合わせた」“サザンオールスターズ”を使用する[2]。この「オールスターズ」には、これ以上バンド名を考えるのが面倒で、また、メンバーチェンジがあってもいいように流動的に入れ替わる全てのメンバーを総称してのバンド名という意味もあった[2]。また、当初は“桑田佳祐&サザンオールスターズ”と名乗っていた[2]。「サザンオールスターズ」名義での最初のライブは公式ページには1976年4月11日と記されており、この時桑田は「じゃあ司会が『サザンオールスターズの皆さんです』と紹介したら出るんだな?」と段取りの確認を行っただけだったとされる。
その後、幾度かのメンバーチェンジの後、1977年にアマチュアバンドのコンクールである「ヤマハEastWest '77」に出場し桑田がベストボーカル賞を獲得。この頃には青学生ではなかった松田弘・野沢秀行も加わりメンバーはデビュー時の6人に固まった[1]。この編成は、サザン・ロックの雄・リトル・フィートの、リードギター・サイドギター・ベース・ドラムス・キーボード・パーカッションの6 人編成と同じという所以もある。当時はセミプロとして活動していた野沢は当初バンドへの参加を断り続けていたが、コンクール出場が決定した際になって突如参加することになったという経緯があった。冗談ではあるが、この後メンバーによって「知らない間に野沢がメンバーに加わっていた」「今現在も正式メンバーではない」ともいわれている[3]。この頃には頭部分の「桑田佳祐 &」が取れ、グループ名がサザンオールスターズとなる[2][4]。なお、原の著書によればこの頃に一度だけ「パロディハウス」という名前に変えようとしたが、「ダサい」との理由で即サザンオールスターズに戻したという。公式ページではこの1972年から1977年までを「夜明け前」と呼称している。
1978年6月25日にシングル『勝手にシンドバッド』でビクター音楽産業(現ビクターエンタテインメント)からデビューし、それまであった歌謡曲やロックなどのジャンルに全く当てはまらない、衝撃的な印象を残す。年内には同曲のスマッシュヒットで一躍スターダムにのし上がった。だが、当初は桑田の「目立ちたがり屋の芸人です」発言[5][6]ジョギングシャツ+ジョギングパンツスタイル、「何を言っているか聞き取れない」と言われた歌などからコミックバンドと評される向きもあった[2]。
だが、翌年の3月25日に発売した3rdシングル『いとしのエリー』の発表後から「本格派の音楽バンド」という評価を受け始めるようになり、その人気を確実なものにした[7]。しかし、その中での多忙な生活は桑田を苦しめ、一時期ノイローゼになるほどに疲れきっていたと語っている[1]。そのような中“FIVE ROCK SHOW”と銘打って「テレビなどに一切出ず、楽曲製作やレコーディングに集中する」と発表することになる[8]。
[編集] 音楽製作に専念〜『KAMAKURA』後サザン活動休止へ
1980年、“FIVE ROCK SHOW”計画がスタート。「5ヶ月の中で毎月1枚ずつシングルを出す」と発表したが、そのシングルはメディアへの露出が大幅に減ったのも影響したのか、どれもスマッシュヒットには至らなかった。この間1981年発売のシングル『Big Star Blues (ビッグスターの悲劇)』は現在でもサザンの全シングル中ワーストの売り上げを記録している[9]。
アルバムは毎回チャート上位を獲得するものの、シングルは売り上げが低迷する状態が続いた。1982年、1月21日に発売したシングル『チャコの海岸物語』が大ヒットした。桑田は当時人気絶頂であったアイドル・田原俊彦の声色を意識して歌うなど、起死回生を賭けた開き直りの歌謡曲だった[10]。この直後、桑田と原は結婚を発表し、TBS系音楽番組『ザ・ベストテン』などでも祝福され、結婚式にはファンを呼ぶなど公私共に祝事が続いた。
その後アルバム『綺麗』の頃は少し売り上げを落としたが、翌年のアルバム『人気者で行こう』は代表曲『ミス・ブランニュー・デイ』のシングルヒットもあり好調な売り上げを記録、そして1985年にはサザンとしては初の2枚組オリジナルアルバム『KAMAKURA』を発売した。長期にレコーディングを重ねたこの濃密なアルバムは、サザン史上最高のアルバムとして評されている[1]。同製作時期に原が産休に入り、サザンとしての活動もひとつの頂点に達してしまったため、一旦活動を休止。桑田はKUWATA BANDとしての活動の後個人ソロを開始し、他のメンバーもそれぞれソロ活動に入った。
[編集] 活動再開〜小林とのコラボ、黄金期へ
1988年6月25日、デビュー10周年の日にシングル『みんなのうた』を発売し、サザンとしての活動を本格的に再開した。ここで初めてサザンに小林武史がアレンジ面、プロデュース業に加わり、それまでのサザンには無い斬新な仕上がりで、その後のサザンライブの定番曲となった。この前年に桑田はソロアルバムで小林と共同プロデュースを行い、非常に完成度の高いアルバムを作っていた。「このアルバムのシェフは小林君、自分は素材として気持ちよく仕事ができた」と語っており[11]、その流れでサザン本体にも合流したものとされる。
翌年にはシングル『さよならベイビー』でデビュー11年目にして初のオリコンシングルウィークリーチャート1位を獲得した。桑田は映画『稲村ジェーン』の監督も手掛け、その主題歌『真夏の果実』は売り上げ的に大ヒットにはならなかったが、現在では夏をイメージさせるJ-POPの定番曲となるほどの人気を博している。
この頃から楽曲製作に関しては「桑田(+アレンジャー)+スタジオ・ミュージシャン+プログラマー+マニピュレーター」という図式が成り立つようになり、現在では「桑田の密室芸」、「ワンマン製作」などとも言われている。特に小林とタッグを組んでいた時などはその傾向が色濃く見られたが、パートナー関係が離れてからも製作はそのようなメンバーで進むようになった[12]。小林はまた桑田とともに原由子の2枚組ソロアルバム『MOTHER』のプロデュースも担当し、桑田はソロライブで「彼が嫌だと言っても、これからのサザン関係巻き込んでいきます!」と小林を絶賛していた[13]。
1991年には関口が病気療養で休養に入るが、1992年、7月21日に『シュラバ★ラ★バンバ/君だけに夢をもう一度』『涙のキッス』を2枚同時発売し、サザン初、そしてオリコンとしても初のシングルチャート初登場1,2フィニッシュを果たした。『涙のキッス』はTBS系ドラマ「ずっとあなたが好きだった」の主題歌に起用され大ヒット、1ヶ月近くオリコン首位をキープするなどサザン初のシングルでのミリオンセラーを突破した[14]。
1993年には『エロティカ・セブン』がフジテレビ系ドラマ「悪魔のKISS」の主題歌に起用され再びミリオンを超える大ヒットを記録[15]。そんな中、1994年には桑田がソロ活動を再開、サザンの活動は約1年間休止となった。
[編集] セルフアレンジ時代へ
小林武史がアルバム『世に万葉の花が咲くなり』、シングル『クリスマス・ラブ (涙のあとには白い雪が降る)』を最後にサザン(桑田ソロ含め)との共同作業から離れる。このはっきりした理由はファンに明らかにされてはいないが、桑田は「(小林は)危ないヤツと分かった」という風に語っており[16]、蜜月の終わりを示唆している。この「危ないヤツ」という表現は、人間性を否定しているものではなく、アレンジャーやミュージシャンとしての才能を存分に評価し、バンドであるはずのサザンのメンバーを差し置いて、小林に頼りすぎてしまうという意味で発言したものである。その後この小林との縁で桑田佳祐&Mr.Children名義でのチャリティー活動や、小林とMr.Childrenの桜井和寿らが中心となって活動するap bank fesへの出演など、作品面以外での交友が続いている。
これらの発言にあるように小林との音楽的な交流は1994年の活動休止時に終了し、これ以降プロデュース名義はサザンのみとなり、一部のミュージシャンが共同製作にあたるものの、小林ほど深く指揮をとっているわけではない。自身のラジオ番組『桑田佳祐のキヤノンFMワンダーランド 〜やさしい夜遊び〜』で桑田は「アレンジってやってみるととても楽しい」とその後よく語っているが、一方で専門的知識を必要とするアレンジ作業に苦しむコメントも窺え、また、リリースにも多くの時間がかかるようになった。
1995年、関口が長期の休養から復帰し、5月22日にシングル『マンピーのG★SPOT』で活動を再開。直後に発売されたシングル『あなただけを 〜Summer Heartbreak〜』はフジテレビの「月9」枠ドラマ「いつかまた逢える」の主題歌として起用され、ミリオンを超えるセールスを記録した。その後も1996年に『愛の言霊 〜Spiritual Message』がミリオン突破するなどし、アルバム『Young Love』は過去最高のアルバム売り上げを記録した。
しかし、1997年あたりからサザンのイメージである「夏」「爽やか」などの売れ線系路線の曲とは程遠い、ハードロックなどを意識した曲を多くリリースするようになり、ライトファン離れが急激に加速していった。1998年にはベストアルバムリリースブームの中『海のYeah!!』を発売、大ヒットを記録するが、直後発売したオリジナルアルバム『さくら』は暗い作風や、上記のハードロックを意識した作品であることもあり、過去3作連続で記録したミリオンを僅かに下回り、1999年には初のドームツアーを行い人気の健在振りを示したものの、『イエローマン 〜星の王子様〜』がノンタイアップとはいえ、累計で10万枚を(オリジナル盤)下回る結果となった。
[編集] 『TSUNAMI』記録的ヒット、大森の独立
1999年9月26日、27日、ファンクラブシークレットライブ「'99 SAS事件簿 in 歌舞伎町」を行う。桑田曰く「ファンの空気に触れて刺激を受けた」とのことで、その当時レコーディングしていた曲(桑田ソロ『可愛いミーナ』の元曲など)も方向性がガラッと変わり明るくなったという。翌2000年、1月26日にシングル『TSUNAMI』を発売。この曲は前述のイベントから生まれた曲であり、「売れるものを作った」などと桑田自身も語っている。このヒット以降、サザンはある程度保守的な方向性へとシフトチェンジしていく。
当時大人気だったTBS系バラエティ番組『ウンナンのホントコ!』のコーナー『未来日記III』のテーマソングとなり、名曲「栞のテーマ」を思わせるかのような切ないラブバラードのこの曲は、日本音楽史上記録的な大ヒットとなる。再発盤のシングルも含め293万枚を売り上げ、オリコン歴代シングル売り上げランキングで3位に、シングルCDとしては現在1位に付けている。かねて何度も逃したレコード大賞も獲得した。この曲を機にサザンはセールス低迷から脱け出し、続く『HOTEL PACIFIC』もヒットを記録、夏には桑田の地元である神奈川県茅ヶ崎市の地元住民の署名運動の結果、2日間の野外ライブ『茅ヶ崎ライブ 〜あなただけの茅ヶ崎〜』を行った。
一方、そのライブが終了した直後大森が休養を発表し、翌2001年には正式に独立を発表しメンバーから脱退した。その前後から桑田らは再びソロ活動を開始。シングル「波乗りジョニー」「白い恋人達」がそれぞれミリオンを超える大ヒットを飛ばした。
[編集] 25周年での活動再開、再びの活動休止へ
2003年6月25日にデビューから25周年を迎え、それを記念してデビューシングルの復刻盤CD「勝手にシンドバッド 胸さわぎのスペシャルボックス」をリリース。同作は1週間で約22万枚を売り上げオリコンウィークリーチャートで1位を記録。発売から25年かけての1位は異例だった。また同日にFMラジオ局のいくつかが24時間サザン特集を実施するなど、今なお幅広い人気を見せつけている。
7月23日、シングル『涙の海で抱かれたい 〜SEA OF LOVE〜』をリリースし活動再開。直後には大規模な野外・スタジアムツアーを行い、復活をアピールした。ただ、ファンの間からは「復活以降のシングルは売れ線ばかり」「『さくら』の頃のようなロックな曲が聞きたい」などとの声も上がっている。2005年には『KAMAKURA』以来の2枚組オリジナルアルバム『キラーストリート』を発売し、『Young Love』以来のミリオンを記録する。2006年にはTHE 夢人島Fes.を開催し、サザンオールスターズとしてもプロモーションのため精力的に活動したが、2007年4月には桑田佳祐のソロ活動再開に伴い再び休止することとなった。
[編集] 現在
デビューシングル「勝手にシンドバッド」から29年以上経った現在でも、老若男女問わず高い人気を集める、まさに日本の“モンスターバンド”である。活動期間が30年近くに渡りながらも、今もなお音楽チャートで1位を獲得したり、オリジナルアルバムがミリオンセラーを記録するバンドはこれまで登場しておらず、四半世紀以上第一線で活躍する唯一無二のバンドである[1]。
その後活動休止から2年明け、30周年の2008年8月6日にニューシングル(タイトル未定)を発売すること、ライブを行うことも決定した。
しかし、30周年の活動・プロモーションの発表と同時に、2009年以降メンバー個々の自由な発想による音楽活動を展開するべく、『サザンオールスターズとしての活動を無期限休止にする』ことも発表した(2006年のThe 夢人島 Fes.を最後に、実質的にサザンとしての活動は行われていなかったものの、この間を活動休止期間と定めていない)。期限を設けない活動休止は、原の出産・KUWATA BANDの活動などがあった1985年〜1986年(活動休止は1988年夏まで)以来約23年ぶり2回目のことである。
サザンオールスターズ活動停止については、2008年5月19日、NHK総合テレビジョンの『NHKニュースおはよう日本』がこのニュースを報じた他、活動休止が公式発表された同日朝から、民放各局で大々的に取り上げるなど、日本のミュージシャン・ユニットのニュースとしては異例の報道や特集がなされ、反響を呼んでいる状況である。
なお、活動休止については東京スポーツが発表前の5月12日にすっぱ抜いたが、所属レコード会社のビクターエンタテインメントが「これはあくまでも推測による記事であり、正式な取材を経て書かれたものではなく、我々も大変困惑しております」とコメントし、ファンに儚い希望を持たせた。なお、活動休止の発表後、所属事務所のアミューズ、レコード会社の日本ビクターの株が急落するなどしている。
wikipediaから引用
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%B6%E3%83%B3%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%BA
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Bohbo No.5

ロックバンドの夢伝説サザンオールスターズ
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サザンオールスターズ(Southern All Stars, 台湾訳:南方之星,中国訳:南天群星)は、日本の音楽バンド。略称は「サザン」。「SAS」と略記されることもある。リーダーは桑田佳祐[1]。所属事務所はアミューズ、レコード会社はビクターエンタテインメント(ビクターTAISHITAレーベル)。これまでのアルバム、シングルの情報についてはサザンオールスターズのディスコグラフィを参照。
目次
[非表示]
* 1 メンバー
* 2 歴史
o 2.1 結成〜デビュー
o 2.2 音楽製作に専念〜『KAMAKURA』後サザン活動休止へ
o 2.3 活動再開〜小林とのコラボ、黄金期へ
o 2.4 セルフアレンジ時代へ
o 2.5 『TSUNAMI』記録的ヒット、大森の独立
o 2.6 25周年での活動再開、再びの活動休止へ
o 2.7 現在
* 3 来歴
o 3.1 1970年代
o 3.2 1980年代
o 3.3 1990年代
o 3.4 2000年代
* 4 稲村オーケストラの存在
* 5 作品
* 6 ライブ・コンサートツアー
* 7 出演
o 7.1 CM
* 8 メディアで使われた曲
* 9 書籍
o 9.1 写真集
o 9.2 関連書籍
* 10 関連項目
* 11 出典・参考文献
* 12 外部リンク
[編集] メンバー
* 桑田佳祐/リードボーカル、ギター(リーダー)
* 関口和之/ベース、コーラス、ボーカル
* 松田弘/ドラム、コーラス、ボーカル
* 原由子/キーボード、ボーカル、コーラス
* 野沢秀行/パーカッション、コーラス
* 大森隆志/リードギター、ボーカル(2001年8月7日付けで独立)
o 各メンバーがコーラスを担当、更に野沢以外はメインボーカル曲があり、作詞・作曲もこなす。
o シングル曲など殆どを桑田が作詞曲を担当。
o 連名は基本的に桑田、大森、関口、松田、原、野沢の順で統一されている。
o 大森脱退後は桑田、関口、松田、原、野沢の順になっている。
[編集] 歴史
各メンバーのソロ活動については個々のページ参照。
[編集] 結成〜デビュー
1975年頃、青山学院大学で活動が始まり[1]、音楽サークル“Better Days”(ベター・デイズ)のメンバーだった桑田を中心に母体となるバンドが結成される[1]。初期の頃は“温泉あんまももひきバンド”、“ピストン桑田とシリンダーズ”、“ピストン桑田と脳卒中”、“桑田佳祐とヒッチコック劇場”など、奇抜なバンド名でコンテスト毎に何度もバンド名とメンバーを変更していたが[1]、最終的には原由子参入の際、桑田の友人が風呂の中で安易に思いついたという「サザン・ロックとファニア・オールスターズを組み合わせた」“サザンオールスターズ”を使用する[2]。この「オールスターズ」には、これ以上バンド名を考えるのが面倒で、また、メンバーチェンジがあってもいいように流動的に入れ替わる全てのメンバーを総称してのバンド名という意味もあった[2]。また、当初は“桑田佳祐&サザンオールスターズ”と名乗っていた[2]。「サザンオールスターズ」名義での最初のライブは公式ページには1976年4月11日と記されており、この時桑田は「じゃあ司会が『サザンオールスターズの皆さんです』と紹介したら出るんだな?」と段取りの確認を行っただけだったとされる。
その後、幾度かのメンバーチェンジの後、1977年にアマチュアバンドのコンクールである「ヤマハEastWest '77」に出場し桑田がベストボーカル賞を獲得。この頃には青学生ではなかった松田弘・野沢秀行も加わりメンバーはデビュー時の6人に固まった[1]。この編成は、サザン・ロックの雄・リトル・フィートの、リードギター・サイドギター・ベース・ドラムス・キーボード・パーカッションの6 人編成と同じという所以もある。当時はセミプロとして活動していた野沢は当初バンドへの参加を断り続けていたが、コンクール出場が決定した際になって突如参加することになったという経緯があった。冗談ではあるが、この後メンバーによって「知らない間に野沢がメンバーに加わっていた」「今現在も正式メンバーではない」ともいわれている[3]。この頃には頭部分の「桑田佳祐 &」が取れ、グループ名がサザンオールスターズとなる[2][4]。なお、原の著書によればこの頃に一度だけ「パロディハウス」という名前に変えようとしたが、「ダサい」との理由で即サザンオールスターズに戻したという。公式ページではこの1972年から1977年までを「夜明け前」と呼称している。
1978年6月25日にシングル『勝手にシンドバッド』でビクター音楽産業(現ビクターエンタテインメント)からデビューし、それまであった歌謡曲やロックなどのジャンルに全く当てはまらない、衝撃的な印象を残す。年内には同曲のスマッシュヒットで一躍スターダムにのし上がった。だが、当初は桑田の「目立ちたがり屋の芸人です」発言[5][6]ジョギングシャツ+ジョギングパンツスタイル、「何を言っているか聞き取れない」と言われた歌などからコミックバンドと評される向きもあった[2]。
だが、翌年の3月25日に発売した3rdシングル『いとしのエリー』の発表後から「本格派の音楽バンド」という評価を受け始めるようになり、その人気を確実なものにした[7]。しかし、その中での多忙な生活は桑田を苦しめ、一時期ノイローゼになるほどに疲れきっていたと語っている[1]。そのような中“FIVE ROCK SHOW”と銘打って「テレビなどに一切出ず、楽曲製作やレコーディングに集中する」と発表することになる[8]。
[編集] 音楽製作に専念〜『KAMAKURA』後サザン活動休止へ
1980年、“FIVE ROCK SHOW”計画がスタート。「5ヶ月の中で毎月1枚ずつシングルを出す」と発表したが、そのシングルはメディアへの露出が大幅に減ったのも影響したのか、どれもスマッシュヒットには至らなかった。この間1981年発売のシングル『Big Star Blues (ビッグスターの悲劇)』は現在でもサザンの全シングル中ワーストの売り上げを記録している[9]。
アルバムは毎回チャート上位を獲得するものの、シングルは売り上げが低迷する状態が続いた。1982年、1月21日に発売したシングル『チャコの海岸物語』が大ヒットした。桑田は当時人気絶頂であったアイドル・田原俊彦の声色を意識して歌うなど、起死回生を賭けた開き直りの歌謡曲だった[10]。この直後、桑田と原は結婚を発表し、TBS系音楽番組『ザ・ベストテン』などでも祝福され、結婚式にはファンを呼ぶなど公私共に祝事が続いた。
その後アルバム『綺麗』の頃は少し売り上げを落としたが、翌年のアルバム『人気者で行こう』は代表曲『ミス・ブランニュー・デイ』のシングルヒットもあり好調な売り上げを記録、そして1985年にはサザンとしては初の2枚組オリジナルアルバム『KAMAKURA』を発売した。長期にレコーディングを重ねたこの濃密なアルバムは、サザン史上最高のアルバムとして評されている[1]。同製作時期に原が産休に入り、サザンとしての活動もひとつの頂点に達してしまったため、一旦活動を休止。桑田はKUWATA BANDとしての活動の後個人ソロを開始し、他のメンバーもそれぞれソロ活動に入った。
[編集] 活動再開〜小林とのコラボ、黄金期へ
1988年6月25日、デビュー10周年の日にシングル『みんなのうた』を発売し、サザンとしての活動を本格的に再開した。ここで初めてサザンに小林武史がアレンジ面、プロデュース業に加わり、それまでのサザンには無い斬新な仕上がりで、その後のサザンライブの定番曲となった。この前年に桑田はソロアルバムで小林と共同プロデュースを行い、非常に完成度の高いアルバムを作っていた。「このアルバムのシェフは小林君、自分は素材として気持ちよく仕事ができた」と語っており[11]、その流れでサザン本体にも合流したものとされる。
翌年にはシングル『さよならベイビー』でデビュー11年目にして初のオリコンシングルウィークリーチャート1位を獲得した。桑田は映画『稲村ジェーン』の監督も手掛け、その主題歌『真夏の果実』は売り上げ的に大ヒットにはならなかったが、現在では夏をイメージさせるJ-POPの定番曲となるほどの人気を博している。
この頃から楽曲製作に関しては「桑田(+アレンジャー)+スタジオ・ミュージシャン+プログラマー+マニピュレーター」という図式が成り立つようになり、現在では「桑田の密室芸」、「ワンマン製作」などとも言われている。特に小林とタッグを組んでいた時などはその傾向が色濃く見られたが、パートナー関係が離れてからも製作はそのようなメンバーで進むようになった[12]。小林はまた桑田とともに原由子の2枚組ソロアルバム『MOTHER』のプロデュースも担当し、桑田はソロライブで「彼が嫌だと言っても、これからのサザン関係巻き込んでいきます!」と小林を絶賛していた[13]。
1991年には関口が病気療養で休養に入るが、1992年、7月21日に『シュラバ★ラ★バンバ/君だけに夢をもう一度』『涙のキッス』を2枚同時発売し、サザン初、そしてオリコンとしても初のシングルチャート初登場1,2フィニッシュを果たした。『涙のキッス』はTBS系ドラマ「ずっとあなたが好きだった」の主題歌に起用され大ヒット、1ヶ月近くオリコン首位をキープするなどサザン初のシングルでのミリオンセラーを突破した[14]。
1993年には『エロティカ・セブン』がフジテレビ系ドラマ「悪魔のKISS」の主題歌に起用され再びミリオンを超える大ヒットを記録[15]。そんな中、1994年には桑田がソロ活動を再開、サザンの活動は約1年間休止となった。
[編集] セルフアレンジ時代へ
小林武史がアルバム『世に万葉の花が咲くなり』、シングル『クリスマス・ラブ (涙のあとには白い雪が降る)』を最後にサザン(桑田ソロ含め)との共同作業から離れる。このはっきりした理由はファンに明らかにされてはいないが、桑田は「(小林は)危ないヤツと分かった」という風に語っており[16]、蜜月の終わりを示唆している。この「危ないヤツ」という表現は、人間性を否定しているものではなく、アレンジャーやミュージシャンとしての才能を存分に評価し、バンドであるはずのサザンのメンバーを差し置いて、小林に頼りすぎてしまうという意味で発言したものである。その後この小林との縁で桑田佳祐&Mr.Children名義でのチャリティー活動や、小林とMr.Childrenの桜井和寿らが中心となって活動するap bank fesへの出演など、作品面以外での交友が続いている。
これらの発言にあるように小林との音楽的な交流は1994年の活動休止時に終了し、これ以降プロデュース名義はサザンのみとなり、一部のミュージシャンが共同製作にあたるものの、小林ほど深く指揮をとっているわけではない。自身のラジオ番組『桑田佳祐のキヤノンFMワンダーランド 〜やさしい夜遊び〜』で桑田は「アレンジってやってみるととても楽しい」とその後よく語っているが、一方で専門的知識を必要とするアレンジ作業に苦しむコメントも窺え、また、リリースにも多くの時間がかかるようになった。
1995年、関口が長期の休養から復帰し、5月22日にシングル『マンピーのG★SPOT』で活動を再開。直後に発売されたシングル『あなただけを 〜Summer Heartbreak〜』はフジテレビの「月9」枠ドラマ「いつかまた逢える」の主題歌として起用され、ミリオンを超えるセールスを記録した。その後も1996年に『愛の言霊 〜Spiritual Message』がミリオン突破するなどし、アルバム『Young Love』は過去最高のアルバム売り上げを記録した。
しかし、1997年あたりからサザンのイメージである「夏」「爽やか」などの売れ線系路線の曲とは程遠い、ハードロックなどを意識した曲を多くリリースするようになり、ライトファン離れが急激に加速していった。1998年にはベストアルバムリリースブームの中『海のYeah!!』を発売、大ヒットを記録するが、直後発売したオリジナルアルバム『さくら』は暗い作風や、上記のハードロックを意識した作品であることもあり、過去3作連続で記録したミリオンを僅かに下回り、1999年には初のドームツアーを行い人気の健在振りを示したものの、『イエローマン 〜星の王子様〜』がノンタイアップとはいえ、累計で10万枚を(オリジナル盤)下回る結果となった。
[編集] 『TSUNAMI』記録的ヒット、大森の独立
1999年9月26日、27日、ファンクラブシークレットライブ「'99 SAS事件簿 in 歌舞伎町」を行う。桑田曰く「ファンの空気に触れて刺激を受けた」とのことで、その当時レコーディングしていた曲(桑田ソロ『可愛いミーナ』の元曲など)も方向性がガラッと変わり明るくなったという。翌2000年、1月26日にシングル『TSUNAMI』を発売。この曲は前述のイベントから生まれた曲であり、「売れるものを作った」などと桑田自身も語っている。このヒット以降、サザンはある程度保守的な方向性へとシフトチェンジしていく。
当時大人気だったTBS系バラエティ番組『ウンナンのホントコ!』のコーナー『未来日記III』のテーマソングとなり、名曲「栞のテーマ」を思わせるかのような切ないラブバラードのこの曲は、日本音楽史上記録的な大ヒットとなる。再発盤のシングルも含め293万枚を売り上げ、オリコン歴代シングル売り上げランキングで3位に、シングルCDとしては現在1位に付けている。かねて何度も逃したレコード大賞も獲得した。この曲を機にサザンはセールス低迷から脱け出し、続く『HOTEL PACIFIC』もヒットを記録、夏には桑田の地元である神奈川県茅ヶ崎市の地元住民の署名運動の結果、2日間の野外ライブ『茅ヶ崎ライブ 〜あなただけの茅ヶ崎〜』を行った。
一方、そのライブが終了した直後大森が休養を発表し、翌2001年には正式に独立を発表しメンバーから脱退した。その前後から桑田らは再びソロ活動を開始。シングル「波乗りジョニー」「白い恋人達」がそれぞれミリオンを超える大ヒットを飛ばした。
[編集] 25周年での活動再開、再びの活動休止へ
2003年6月25日にデビューから25周年を迎え、それを記念してデビューシングルの復刻盤CD「勝手にシンドバッド 胸さわぎのスペシャルボックス」をリリース。同作は1週間で約22万枚を売り上げオリコンウィークリーチャートで1位を記録。発売から25年かけての1位は異例だった。また同日にFMラジオ局のいくつかが24時間サザン特集を実施するなど、今なお幅広い人気を見せつけている。
7月23日、シングル『涙の海で抱かれたい 〜SEA OF LOVE〜』をリリースし活動再開。直後には大規模な野外・スタジアムツアーを行い、復活をアピールした。ただ、ファンの間からは「復活以降のシングルは売れ線ばかり」「『さくら』の頃のようなロックな曲が聞きたい」などとの声も上がっている。2005年には『KAMAKURA』以来の2枚組オリジナルアルバム『キラーストリート』を発売し、『Young Love』以来のミリオンを記録する。2006年にはTHE 夢人島Fes.を開催し、サザンオールスターズとしてもプロモーションのため精力的に活動したが、2007年4月には桑田佳祐のソロ活動再開に伴い再び休止することとなった。
[編集] 現在
デビューシングル「勝手にシンドバッド」から29年以上経った現在でも、老若男女問わず高い人気を集める、まさに日本の“モンスターバンド”である。活動期間が30年近くに渡りながらも、今もなお音楽チャートで1位を獲得したり、オリジナルアルバムがミリオンセラーを記録するバンドはこれまで登場しておらず、四半世紀以上第一線で活躍する唯一無二のバンドである[1]。
その後活動休止から2年明け、30周年の2008年8月6日にニューシングル(タイトル未定)を発売すること、ライブを行うことも決定した。
しかし、30周年の活動・プロモーションの発表と同時に、2009年以降メンバー個々の自由な発想による音楽活動を展開するべく、『サザンオールスターズとしての活動を無期限休止にする』ことも発表した(2006年のThe 夢人島 Fes.を最後に、実質的にサザンとしての活動は行われていなかったものの、この間を活動休止期間と定めていない)。期限を設けない活動休止は、原の出産・KUWATA BANDの活動などがあった1985年〜1986年(活動休止は1988年夏まで)以来約23年ぶり2回目のことである。
サザンオールスターズ活動停止については、2008年5月19日、NHK総合テレビジョンの『NHKニュースおはよう日本』がこのニュースを報じた他、活動休止が公式発表された同日朝から、民放各局で大々的に取り上げるなど、日本のミュージシャン・ユニットのニュースとしては異例の報道や特集がなされ、反響を呼んでいる状況である。
なお、活動休止については東京スポーツが発表前の5月12日にすっぱ抜いたが、所属レコード会社のビクターエンタテインメントが「これはあくまでも推測による記事であり、正式な取材を経て書かれたものではなく、我々も大変困惑しております」とコメントし、ファンに儚い希望を持たせた。なお、活動休止の発表後、所属事務所のアミューズ、レコード会社の日本ビクターの株が急落するなどしている。
wikipediaから引用
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%B6%E3%83%B3%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%BA
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Bohbo No.5
ロックバンドの夢伝説サザンオールスターズ
2008年05月19日
サザンオールスターズ解散!?
サザンオールスターズをwikipediaで調べました

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サザンオールスターズ(Southern All Stars, 台湾訳:南方之星,中国訳:南天群星)は、日本の音楽バンド。略称は「サザン」。「SAS」と略記されることもある。リーダーは桑田佳祐[1]。所属事務所はアミューズ、レコード会社はビクターエンタテインメント(ビクターTAISHITAレーベル)。これまでのアルバム、シングルの情報についてはサザンオールスターズのディスコグラフィを参照。
メンバー
* 桑田佳祐/リードボーカル、ギター(リーダー)
* 関口和之/ベース、コーラス、ボーカル
* 松田弘/ドラム、コーラス、ボーカル
* 原由子/キーボード、ボーカル、コーラス
* 野沢秀行/パーカッション、コーラス
* 大森隆志/リードギター、ボーカル(2001年8月7日付けで独立)
o 各メンバーがコーラスを担当、更に野沢以外はメインボーカル曲があり、作詞・作曲もこなす。
o シングル曲など殆どを桑田が作詞曲を担当。
o 連名は基本的に桑田、大森、関口、松田、原、野沢の順で統一されている。
o 大森脱退後は桑田、関口、松田、原、野沢の順になっている。
[編集] 歴史
各メンバーのソロ活動については個々のページ参照。
[編集] 結成〜デビュー
1975年頃、青山学院大学で活動が始まり[1]、音楽サークル“Better Days”(ベター・デイズ)のメンバーだった桑田を中心に母体となるバンドが結成される[1]。初期の頃は“温泉あんまももひきバンド”、“ピストン桑田とシリンダーズ”、“ピストン桑田と脳卒中”、“桑田佳祐とヒッチコック劇場”など、奇抜なバンド名でコンテスト毎に何度もバンド名とメンバーを変更していたが[1]、最終的には原由子参入の際、桑田の友人が風呂の中で安易に思いついたという「サザン・ロックとファニア・オールスターズを組み合わせた」“サザンオールスターズ”を使用する[2]。この「オールスターズ」には、これ以上バンド名を考えるのが面倒で、また、メンバーチェンジがあってもいいように流動的に入れ替わる全てのメンバーを総称してのバンド名という意味もあった[2]。また、当初は“桑田佳祐&サザンオールスターズ”と名乗っていた[2]。「サザンオールスターズ」名義での最初のライブは公式ページには1976年4月11日と記されており、この時桑田は「じゃあ司会が『サザンオールスターズの皆さんです』と紹介したら出るんだな?」と段取りの確認を行っただけだったとされる。
その後、幾度かのメンバーチェンジの後、1977年にアマチュアバンドのコンクールである「ヤマハEastWest '77」に出場し桑田がベストボーカル賞を獲得。この頃には青学生ではなかった松田弘・野沢秀行も加わりメンバーはデビュー時の6人に固まった[1]。この編成は、サザン・ロックの雄・リトル・フィートの、リードギター・サイドギター・ベース・ドラムス・キーボード・パーカッションの6 人編成と同じという所以もある。当時はセミプロとして活動していた野沢は当初バンドへの参加を断り続けていたが、コンクール出場が決定した際になって突如参加することになったという経緯があった。冗談ではあるが、この後メンバーによって「知らない間に野沢がメンバーに加わっていた」「今現在も正式メンバーではない」ともいわれている[3]。この頃には頭部分の「桑田佳祐 &」が取れ、グループ名がサザンオールスターズとなる[2][4]。なお、原の著書によればこの頃に一度だけ「パロディハウス」という名前に変えようとしたが、「ダサい」との理由で即サザンオールスターズに戻したという。公式ページではこの1972年から1977年までを「夜明け前」と呼称している。
1978年6月25日にシングル『勝手にシンドバッド』でビクター音楽産業(現ビクターエンタテインメント)からデビューし、それまであった歌謡曲やロックなどのジャンルに全く当てはまらない、衝撃的な印象を残す。年内には同曲のスマッシュヒットで一躍スターダムにのし上がった。だが、当初は桑田の「目立ちたがり屋の芸人です」発言[5][6]ジョギングシャツ+ジョギングパンツスタイル、「何を言っているか聞き取れない」と言われた歌などからコミックバンドと評される向きもあった[2]。
だが、翌年の3月25日に発売した3rdシングル『いとしのエリー』の発表後から「本格派の音楽バンド」という評価を受け始めるようになり、その人気を確実なものにした[7]。しかし、その中での多忙な生活は桑田を苦しめ、一時期ノイローゼになるほどに疲れきっていたと語っている[1]。そのような中“FIVE ROCK SHOW”と銘打って「テレビなどに一切出ず、楽曲製作やレコーディングに集中する」と発表することになる[8]。
[編集] 音楽製作に専念〜『KAMAKURA』後サザン活動休止へ
1980年、“FIVE ROCK SHOW”計画がスタート。「5ヶ月の中で毎月1枚ずつシングルを出す」と発表したが、そのシングルはメディアへの露出が大幅に減ったのも影響したのか、どれもスマッシュヒットには至らなかった。この間1981年発売のシングル『Big Star Blues (ビッグスターの悲劇)』は現在でもサザンの全シングル中ワーストの売り上げを記録している[9]。
アルバムは毎回チャート上位を獲得するものの、シングルは売り上げが低迷する状態が続いた。1982年、1月21日に発売したシングル『チャコの海岸物語』が大ヒットした。桑田は当時人気絶頂であったアイドル・田原俊彦の声色を意識して歌うなど、起死回生を賭けた開き直りの歌謡曲だった[10]。この直後、桑田と原は結婚を発表し、TBS系音楽番組『ザ・ベストテン』などでも祝福され、結婚式にはファンを呼ぶなど公私共に祝事が続いた。
その後アルバム『綺麗』の頃は少し売り上げを落としたが、翌年のアルバム『人気者で行こう』は代表曲『ミス・ブランニュー・デイ』のシングルヒットもあり好調な売り上げを記録、そして1985年にはサザンとしては初の2枚組オリジナルアルバム『KAMAKURA』を発売した。長期にレコーディングを重ねたこの濃密なアルバムは、サザン史上最高のアルバムとして評されている[1]。同製作時期に原が産休に入り、サザンとしての活動もひとつの頂点に達してしまったため、一旦活動を休止。桑田はKUWATA BANDとしての活動の後個人ソロを開始し、他のメンバーもそれぞれソロ活動に入った。
[編集] 活動再開〜小林とのコラボ、黄金期へ
1988年6月25日、デビュー10周年の日にシングル『みんなのうた』を発売し、サザンとしての活動を本格的に再開した。ここで初めてサザンに小林武史がアレンジ面、プロデュース業に加わり、それまでのサザンには無い斬新な仕上がりで、その後のサザンライブの定番曲となった。この前年に桑田はソロアルバムで小林と共同プロデュースを行い、非常に完成度の高いアルバムを作っていた。「このアルバムのシェフは小林君、自分は素材として気持ちよく仕事ができた」と語っており[11]、その流れでサザン本体にも合流したものとされる。
翌年にはシングル『さよならベイビー』でデビュー11年目にして初のオリコンシングルウィークリーチャート1位を獲得した。桑田は映画『稲村ジェーン』の監督も手掛け、その主題歌『真夏の果実』は売り上げ的に大ヒットにはならなかったが、現在では夏をイメージさせるJ-POPの定番曲となるほどの人気を博している。
この頃から楽曲製作に関しては「桑田(+アレンジャー)+スタジオ・ミュージシャン+プログラマー+マニピュレーター」という図式が成り立つようになり、現在では「桑田の密室芸」、「ワンマン製作」などとも言われている。特に小林とタッグを組んでいた時などはその傾向が色濃く見られたが、パートナー関係が離れてからも製作はそのようなメンバーで進むようになった[12]。小林はまた桑田とともに原由子の2枚組ソロアルバム『MOTHER』のプロデュースも担当し、桑田はソロライブで「彼が嫌だと言っても、これからのサザン関係巻き込んでいきます!」と小林を絶賛していた[13]。
1991年には関口が病気療養で休養に入るが、1992年、7月21日に『シュラバ★ラ★バンバ/君だけに夢をもう一度』『涙のキッス』を2枚同時発売し、サザン初、そしてオリコンとしても初のシングルチャート初登場1,2フィニッシュを果たした。『涙のキッス』はTBS系ドラマ「ずっとあなたが好きだった」の主題歌に起用され大ヒット、1ヶ月近くオリコン首位をキープするなどサザン初のシングルでのミリオンセラーを突破した[14]。
1993年には『エロティカ・セブン』がフジテレビ系ドラマ「悪魔のKISS」の主題歌に起用され再びミリオンを超える大ヒットを記録[15]。そんな中、1994年には桑田がソロ活動を再開、サザンの活動は約1年間休止となった。
[編集] セルフアレンジ時代へ
小林武史がアルバム『世に万葉の花が咲くなり』、シングル『クリスマス・ラブ (涙のあとには白い雪が降る)』を最後にサザン(桑田ソロ含め)との共同作業から離れる。このはっきりした理由はファンに明らかにされてはいないが、桑田は「(小林は)危ないヤツと分かった」という風に語っており[16]、蜜月の終わりを示唆している。この「危ないヤツ」という表現は、人間性を否定しているものではなく、アレンジャーやミュージシャンとしての才能を存分に評価し、バンドであるはずのサザンのメンバーを差し置いて、小林に頼りすぎてしまうという意味で発言したものである。その後この小林との縁で桑田佳祐&Mr.Children名義でのチャリティー活動や、小林とMr.Childrenの桜井和寿らが中心となって活動するap bank fesへの出演など、作品面以外での交友が続いている。
これらの発言にあるように小林との音楽的な交流は1994年の活動休止時に終了し、これ以降プロデュース名義はサザンのみとなり、一部のミュージシャンが共同製作にあたるものの、小林ほど深く指揮をとっているわけではない。自身のラジオ番組『桑田佳祐のキヤノンFMワンダーランド 〜やさしい夜遊び〜』で桑田は「アレンジってやってみるととても楽しい」とその後よく語っているが、一方で専門的知識を必要とするアレンジ作業に苦しむコメントも窺え、また、リリースにも多くの時間がかかるようになった。
1995年、関口が長期の休養から復帰し、5月22日にシングル『マンピーのG★SPOT』で活動を再開。直後に発売されたシングル『あなただけを 〜Summer Heartbreak〜』はフジテレビの「月9」枠ドラマ「いつかまた逢える」の主題歌として起用され、ミリオンを超えるセールスを記録した。その後も1996年に『愛の言霊 〜Spiritual Message』がミリオン突破するなどし、アルバム『Young Love』は過去最高のアルバム売り上げを記録した。
しかし、1997年あたりからサザンのイメージである「夏」「爽やか」などの売れ線系路線の曲とは程遠い、ハードロックなどを意識した曲を多くリリースするようになり、ライトファン離れが急激に加速していった。1998年にはベストアルバムリリースブームの中『海のYeah!!』を発売、大ヒットを記録するが、直後発売したオリジナルアルバム『さくら』は暗い作風や、上記のハードロックを意識した作品であることもあり、過去3作連続で記録したミリオンを僅かに下回り、1999年には初のドームツアーを行い人気の健在振りを示したものの、『イエローマン 〜星の王子様〜』がノンタイアップとはいえ、累計で10万枚を(オリジナル盤)下回る結果となった。
[編集] 『TSUNAMI』記録的ヒット、大森の独立
1999年9月26日、27日、ファンクラブシークレットライブ「'99 SAS事件簿 in 歌舞伎町」を行う。桑田曰く「ファンの空気に触れて刺激を受けた」とのことで、その当時レコーディングしていた曲(桑田ソロ『可愛いミーナ』の元曲など)も方向性がガラッと変わり明るくなったという。翌2000年、1月26日にシングル『TSUNAMI』を発売。この曲は前述のイベントから生まれた曲であり、「売れるものを作った」などと桑田自身も語っている。このヒット以降、サザンはある程度保守的な方向性へとシフトチェンジしていく。
当時大人気だったTBS系バラエティ番組『ウンナンのホントコ!』のコーナー『未来日記III』のテーマソングとなり、名曲「栞のテーマ」を思わせるかのような切ないラブバラードのこの曲は、日本音楽史上記録的な大ヒットとなる。再発盤のシングルも含め293万枚を売り上げ、オリコン歴代シングル売り上げランキングで3位に、シングルCDとしては現在1位に付けている。かねて何度も逃したレコード大賞も獲得した。この曲を機にサザンはセールス低迷から脱け出し、続く『HOTEL PACIFIC』もヒットを記録、夏には桑田の地元である神奈川県茅ヶ崎市の地元住民の署名運動の結果、2日間の野外ライブ『茅ヶ崎ライブ 〜あなただけの茅ヶ崎〜』を行った。
一方、そのライブが終了した直後大森が休養を発表し、翌2001年には正式に独立を発表しメンバーから脱退した。その前後から桑田らは再びソロ活動を開始。シングル「波乗りジョニー」「白い恋人達」がそれぞれミリオンを超える大ヒットを飛ばした。
[編集] 25周年での活動再開、再びの活動休止へ
2003年6月25日にデビューから25周年を迎え、それを記念してデビューシングルの復刻盤CD「勝手にシンドバッド 胸さわぎのスペシャルボックス」をリリース。同作は1週間で約22万枚を売り上げオリコンウィークリーチャートで1位を記録。発売から25年かけての1位は異例だった。また同日にFMラジオ局のいくつかが24時間サザン特集を実施するなど、今なお幅広い人気を見せつけている。
7月23日、シングル『涙の海で抱かれたい 〜SEA OF LOVE〜』をリリースし活動再開。直後には大規模な野外・スタジアムツアーを行い、復活をアピールした。ただ、ファンの間からは「復活以降のシングルは売れ線ばかり」「『さくら』の頃のようなロックな曲が聞きたい」などとの声も上がっている。2005年には『KAMAKURA』以来の2枚組オリジナルアルバム『キラーストリート』を発売し、『Young Love』以来のミリオンを記録する。2006年にはTHE 夢人島Fes.を開催し、サザンオールスターズとしてもプロモーションのため精力的に活動したが、2007年4月には桑田佳祐のソロ活動再開に伴い再び休止することとなった。
[編集] 現在
デビューシングル「勝手にシンドバッド」から29年以上経った現在でも、老若男女問わず高い人気を集める、まさに日本の“モンスターバンド”である。活動期間が30年近くに渡りながらも、今もなお音楽チャートで1位を獲得したり、オリジナルアルバムがミリオンセラーを記録するバンドはこれまで登場しておらず、四半世紀以上第一線で活躍する唯一無二のバンドである[1]。
そして活動休止から2年明け、30周年の2008年8月6日にニューシングル(タイトル未定)を発売すること、ライブを行うことも決定した。しかし2009年以降は無期限活動休止にする意向も明らかにした。
wikipediaから引用
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%B6%E3%83%B3%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%BA
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サザンオールスターズ改訂版
Southern All Stars Video Clip Show「ベストヒットUSAS(ウルトラ・サザンオールスターズ)」 30%OFF!

桑田佳祐2007-2008(SWITCH SPECIAL ISSUE)
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サザンオールスターズ(Southern All Stars, 台湾訳:南方之星,中国訳:南天群星)は、日本の音楽バンド。略称は「サザン」。「SAS」と略記されることもある。リーダーは桑田佳祐[1]。所属事務所はアミューズ、レコード会社はビクターエンタテインメント(ビクターTAISHITAレーベル)。これまでのアルバム、シングルの情報についてはサザンオールスターズのディスコグラフィを参照。
メンバー
* 桑田佳祐/リードボーカル、ギター(リーダー)
* 関口和之/ベース、コーラス、ボーカル
* 松田弘/ドラム、コーラス、ボーカル
* 原由子/キーボード、ボーカル、コーラス
* 野沢秀行/パーカッション、コーラス
* 大森隆志/リードギター、ボーカル(2001年8月7日付けで独立)
o 各メンバーがコーラスを担当、更に野沢以外はメインボーカル曲があり、作詞・作曲もこなす。
o シングル曲など殆どを桑田が作詞曲を担当。
o 連名は基本的に桑田、大森、関口、松田、原、野沢の順で統一されている。
o 大森脱退後は桑田、関口、松田、原、野沢の順になっている。
[編集] 歴史
各メンバーのソロ活動については個々のページ参照。
[編集] 結成〜デビュー
1975年頃、青山学院大学で活動が始まり[1]、音楽サークル“Better Days”(ベター・デイズ)のメンバーだった桑田を中心に母体となるバンドが結成される[1]。初期の頃は“温泉あんまももひきバンド”、“ピストン桑田とシリンダーズ”、“ピストン桑田と脳卒中”、“桑田佳祐とヒッチコック劇場”など、奇抜なバンド名でコンテスト毎に何度もバンド名とメンバーを変更していたが[1]、最終的には原由子参入の際、桑田の友人が風呂の中で安易に思いついたという「サザン・ロックとファニア・オールスターズを組み合わせた」“サザンオールスターズ”を使用する[2]。この「オールスターズ」には、これ以上バンド名を考えるのが面倒で、また、メンバーチェンジがあってもいいように流動的に入れ替わる全てのメンバーを総称してのバンド名という意味もあった[2]。また、当初は“桑田佳祐&サザンオールスターズ”と名乗っていた[2]。「サザンオールスターズ」名義での最初のライブは公式ページには1976年4月11日と記されており、この時桑田は「じゃあ司会が『サザンオールスターズの皆さんです』と紹介したら出るんだな?」と段取りの確認を行っただけだったとされる。
その後、幾度かのメンバーチェンジの後、1977年にアマチュアバンドのコンクールである「ヤマハEastWest '77」に出場し桑田がベストボーカル賞を獲得。この頃には青学生ではなかった松田弘・野沢秀行も加わりメンバーはデビュー時の6人に固まった[1]。この編成は、サザン・ロックの雄・リトル・フィートの、リードギター・サイドギター・ベース・ドラムス・キーボード・パーカッションの6 人編成と同じという所以もある。当時はセミプロとして活動していた野沢は当初バンドへの参加を断り続けていたが、コンクール出場が決定した際になって突如参加することになったという経緯があった。冗談ではあるが、この後メンバーによって「知らない間に野沢がメンバーに加わっていた」「今現在も正式メンバーではない」ともいわれている[3]。この頃には頭部分の「桑田佳祐 &」が取れ、グループ名がサザンオールスターズとなる[2][4]。なお、原の著書によればこの頃に一度だけ「パロディハウス」という名前に変えようとしたが、「ダサい」との理由で即サザンオールスターズに戻したという。公式ページではこの1972年から1977年までを「夜明け前」と呼称している。
1978年6月25日にシングル『勝手にシンドバッド』でビクター音楽産業(現ビクターエンタテインメント)からデビューし、それまであった歌謡曲やロックなどのジャンルに全く当てはまらない、衝撃的な印象を残す。年内には同曲のスマッシュヒットで一躍スターダムにのし上がった。だが、当初は桑田の「目立ちたがり屋の芸人です」発言[5][6]ジョギングシャツ+ジョギングパンツスタイル、「何を言っているか聞き取れない」と言われた歌などからコミックバンドと評される向きもあった[2]。
だが、翌年の3月25日に発売した3rdシングル『いとしのエリー』の発表後から「本格派の音楽バンド」という評価を受け始めるようになり、その人気を確実なものにした[7]。しかし、その中での多忙な生活は桑田を苦しめ、一時期ノイローゼになるほどに疲れきっていたと語っている[1]。そのような中“FIVE ROCK SHOW”と銘打って「テレビなどに一切出ず、楽曲製作やレコーディングに集中する」と発表することになる[8]。
[編集] 音楽製作に専念〜『KAMAKURA』後サザン活動休止へ
1980年、“FIVE ROCK SHOW”計画がスタート。「5ヶ月の中で毎月1枚ずつシングルを出す」と発表したが、そのシングルはメディアへの露出が大幅に減ったのも影響したのか、どれもスマッシュヒットには至らなかった。この間1981年発売のシングル『Big Star Blues (ビッグスターの悲劇)』は現在でもサザンの全シングル中ワーストの売り上げを記録している[9]。
アルバムは毎回チャート上位を獲得するものの、シングルは売り上げが低迷する状態が続いた。1982年、1月21日に発売したシングル『チャコの海岸物語』が大ヒットした。桑田は当時人気絶頂であったアイドル・田原俊彦の声色を意識して歌うなど、起死回生を賭けた開き直りの歌謡曲だった[10]。この直後、桑田と原は結婚を発表し、TBS系音楽番組『ザ・ベストテン』などでも祝福され、結婚式にはファンを呼ぶなど公私共に祝事が続いた。
その後アルバム『綺麗』の頃は少し売り上げを落としたが、翌年のアルバム『人気者で行こう』は代表曲『ミス・ブランニュー・デイ』のシングルヒットもあり好調な売り上げを記録、そして1985年にはサザンとしては初の2枚組オリジナルアルバム『KAMAKURA』を発売した。長期にレコーディングを重ねたこの濃密なアルバムは、サザン史上最高のアルバムとして評されている[1]。同製作時期に原が産休に入り、サザンとしての活動もひとつの頂点に達してしまったため、一旦活動を休止。桑田はKUWATA BANDとしての活動の後個人ソロを開始し、他のメンバーもそれぞれソロ活動に入った。
[編集] 活動再開〜小林とのコラボ、黄金期へ
1988年6月25日、デビュー10周年の日にシングル『みんなのうた』を発売し、サザンとしての活動を本格的に再開した。ここで初めてサザンに小林武史がアレンジ面、プロデュース業に加わり、それまでのサザンには無い斬新な仕上がりで、その後のサザンライブの定番曲となった。この前年に桑田はソロアルバムで小林と共同プロデュースを行い、非常に完成度の高いアルバムを作っていた。「このアルバムのシェフは小林君、自分は素材として気持ちよく仕事ができた」と語っており[11]、その流れでサザン本体にも合流したものとされる。
翌年にはシングル『さよならベイビー』でデビュー11年目にして初のオリコンシングルウィークリーチャート1位を獲得した。桑田は映画『稲村ジェーン』の監督も手掛け、その主題歌『真夏の果実』は売り上げ的に大ヒットにはならなかったが、現在では夏をイメージさせるJ-POPの定番曲となるほどの人気を博している。
この頃から楽曲製作に関しては「桑田(+アレンジャー)+スタジオ・ミュージシャン+プログラマー+マニピュレーター」という図式が成り立つようになり、現在では「桑田の密室芸」、「ワンマン製作」などとも言われている。特に小林とタッグを組んでいた時などはその傾向が色濃く見られたが、パートナー関係が離れてからも製作はそのようなメンバーで進むようになった[12]。小林はまた桑田とともに原由子の2枚組ソロアルバム『MOTHER』のプロデュースも担当し、桑田はソロライブで「彼が嫌だと言っても、これからのサザン関係巻き込んでいきます!」と小林を絶賛していた[13]。
1991年には関口が病気療養で休養に入るが、1992年、7月21日に『シュラバ★ラ★バンバ/君だけに夢をもう一度』『涙のキッス』を2枚同時発売し、サザン初、そしてオリコンとしても初のシングルチャート初登場1,2フィニッシュを果たした。『涙のキッス』はTBS系ドラマ「ずっとあなたが好きだった」の主題歌に起用され大ヒット、1ヶ月近くオリコン首位をキープするなどサザン初のシングルでのミリオンセラーを突破した[14]。
1993年には『エロティカ・セブン』がフジテレビ系ドラマ「悪魔のKISS」の主題歌に起用され再びミリオンを超える大ヒットを記録[15]。そんな中、1994年には桑田がソロ活動を再開、サザンの活動は約1年間休止となった。
[編集] セルフアレンジ時代へ
小林武史がアルバム『世に万葉の花が咲くなり』、シングル『クリスマス・ラブ (涙のあとには白い雪が降る)』を最後にサザン(桑田ソロ含め)との共同作業から離れる。このはっきりした理由はファンに明らかにされてはいないが、桑田は「(小林は)危ないヤツと分かった」という風に語っており[16]、蜜月の終わりを示唆している。この「危ないヤツ」という表現は、人間性を否定しているものではなく、アレンジャーやミュージシャンとしての才能を存分に評価し、バンドであるはずのサザンのメンバーを差し置いて、小林に頼りすぎてしまうという意味で発言したものである。その後この小林との縁で桑田佳祐&Mr.Children名義でのチャリティー活動や、小林とMr.Childrenの桜井和寿らが中心となって活動するap bank fesへの出演など、作品面以外での交友が続いている。
これらの発言にあるように小林との音楽的な交流は1994年の活動休止時に終了し、これ以降プロデュース名義はサザンのみとなり、一部のミュージシャンが共同製作にあたるものの、小林ほど深く指揮をとっているわけではない。自身のラジオ番組『桑田佳祐のキヤノンFMワンダーランド 〜やさしい夜遊び〜』で桑田は「アレンジってやってみるととても楽しい」とその後よく語っているが、一方で専門的知識を必要とするアレンジ作業に苦しむコメントも窺え、また、リリースにも多くの時間がかかるようになった。
1995年、関口が長期の休養から復帰し、5月22日にシングル『マンピーのG★SPOT』で活動を再開。直後に発売されたシングル『あなただけを 〜Summer Heartbreak〜』はフジテレビの「月9」枠ドラマ「いつかまた逢える」の主題歌として起用され、ミリオンを超えるセールスを記録した。その後も1996年に『愛の言霊 〜Spiritual Message』がミリオン突破するなどし、アルバム『Young Love』は過去最高のアルバム売り上げを記録した。
しかし、1997年あたりからサザンのイメージである「夏」「爽やか」などの売れ線系路線の曲とは程遠い、ハードロックなどを意識した曲を多くリリースするようになり、ライトファン離れが急激に加速していった。1998年にはベストアルバムリリースブームの中『海のYeah!!』を発売、大ヒットを記録するが、直後発売したオリジナルアルバム『さくら』は暗い作風や、上記のハードロックを意識した作品であることもあり、過去3作連続で記録したミリオンを僅かに下回り、1999年には初のドームツアーを行い人気の健在振りを示したものの、『イエローマン 〜星の王子様〜』がノンタイアップとはいえ、累計で10万枚を(オリジナル盤)下回る結果となった。
[編集] 『TSUNAMI』記録的ヒット、大森の独立
1999年9月26日、27日、ファンクラブシークレットライブ「'99 SAS事件簿 in 歌舞伎町」を行う。桑田曰く「ファンの空気に触れて刺激を受けた」とのことで、その当時レコーディングしていた曲(桑田ソロ『可愛いミーナ』の元曲など)も方向性がガラッと変わり明るくなったという。翌2000年、1月26日にシングル『TSUNAMI』を発売。この曲は前述のイベントから生まれた曲であり、「売れるものを作った」などと桑田自身も語っている。このヒット以降、サザンはある程度保守的な方向性へとシフトチェンジしていく。
当時大人気だったTBS系バラエティ番組『ウンナンのホントコ!』のコーナー『未来日記III』のテーマソングとなり、名曲「栞のテーマ」を思わせるかのような切ないラブバラードのこの曲は、日本音楽史上記録的な大ヒットとなる。再発盤のシングルも含め293万枚を売り上げ、オリコン歴代シングル売り上げランキングで3位に、シングルCDとしては現在1位に付けている。かねて何度も逃したレコード大賞も獲得した。この曲を機にサザンはセールス低迷から脱け出し、続く『HOTEL PACIFIC』もヒットを記録、夏には桑田の地元である神奈川県茅ヶ崎市の地元住民の署名運動の結果、2日間の野外ライブ『茅ヶ崎ライブ 〜あなただけの茅ヶ崎〜』を行った。
一方、そのライブが終了した直後大森が休養を発表し、翌2001年には正式に独立を発表しメンバーから脱退した。その前後から桑田らは再びソロ活動を開始。シングル「波乗りジョニー」「白い恋人達」がそれぞれミリオンを超える大ヒットを飛ばした。
[編集] 25周年での活動再開、再びの活動休止へ
2003年6月25日にデビューから25周年を迎え、それを記念してデビューシングルの復刻盤CD「勝手にシンドバッド 胸さわぎのスペシャルボックス」をリリース。同作は1週間で約22万枚を売り上げオリコンウィークリーチャートで1位を記録。発売から25年かけての1位は異例だった。また同日にFMラジオ局のいくつかが24時間サザン特集を実施するなど、今なお幅広い人気を見せつけている。
7月23日、シングル『涙の海で抱かれたい 〜SEA OF LOVE〜』をリリースし活動再開。直後には大規模な野外・スタジアムツアーを行い、復活をアピールした。ただ、ファンの間からは「復活以降のシングルは売れ線ばかり」「『さくら』の頃のようなロックな曲が聞きたい」などとの声も上がっている。2005年には『KAMAKURA』以来の2枚組オリジナルアルバム『キラーストリート』を発売し、『Young Love』以来のミリオンを記録する。2006年にはTHE 夢人島Fes.を開催し、サザンオールスターズとしてもプロモーションのため精力的に活動したが、2007年4月には桑田佳祐のソロ活動再開に伴い再び休止することとなった。
[編集] 現在
デビューシングル「勝手にシンドバッド」から29年以上経った現在でも、老若男女問わず高い人気を集める、まさに日本の“モンスターバンド”である。活動期間が30年近くに渡りながらも、今もなお音楽チャートで1位を獲得したり、オリジナルアルバムがミリオンセラーを記録するバンドはこれまで登場しておらず、四半世紀以上第一線で活躍する唯一無二のバンドである[1]。
そして活動休止から2年明け、30周年の2008年8月6日にニューシングル(タイトル未定)を発売すること、ライブを行うことも決定した。しかし2009年以降は無期限活動休止にする意向も明らかにした。
wikipediaから引用
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%B6%E3%83%B3%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%BA
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サザンオールスターズ改訂版


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